Se connecter外科医として現場に復帰してからというもの、楓の時間は文字通り“戦場”そのものだった。 朝は誰よりも早く病院に入り、夜は当直か、終電近くの帰宅。 外来、病棟回診、緊急オペ、急患対応――復帰して間もない楓には、実力以前に体力が試される日々が続いた。 ブランクが二年あるとはいえ、楓はもともと優秀な外科医だ。 だが病院はそんな経歴を一切考慮しない。 主任医師の指示のもと、年下の研修医たちと同じ立場で動き、雑務もこなし、当直も回された。 自宅に帰れる日は珍しく、帰れたとしても―― 玄関を開けた瞬間、バッグを落とし、服を脱ぎ、靴も揃えず、その場にしゃがみこんでしまう。(……限界……) それでもベッドに倒れ込む直前、楓はスマホを手に取り、無意識に慎一とのメッセージ画面を開く。《今日もお疲れさん。無理するなよ》 そんな短いメッセージが届いているだけで、呼吸が少しだけ整う気がした。《ありがとう。慎は? 今日は帰れそう?》《たぶん徹夜。企業訴訟で揉めててな。社長同士がもう喧嘩腰》《相変わらず…大変だね》《まあな。でも楓の方が大変だろ》《がんばるよ。ありがとう、慎》 わずかなやり取り。 会えていなくても、文字のやり取りだけで互いの存在を確かめられた。(慎も頑張ってるんだもん。私も……頑張らなくちゃ) そう思えることが楓の支えになっていた。 復帰から一か月が経った頃、楓は救命救急センターの応援に入ることになった。 連日のオペと徹夜明けの外来に加え、救急では土日もお構いなしで患者が運び込まれる。「渡辺先生、心タンポナーデ疑い! 処置室お願いします!」「はい!」 救急の廊下を走るたび、胸の奥が熱くなる。 辛い。眠い。体が重い。 それでも――この瞬間だけは、生きている実感が湧いた。(やっぱり、私はここが好きなんだ) その気持ちに嘘はなかった。 一方の慎一もまた、同じように修羅場をくぐっていた。 医療訴訟、防衛庁関連の案件、企業買収の交渉―― すべてが重なり、深夜のオフィスで書類に埋もれる日々。 時々、楓から《今日、当直……倒れそう……》 とメッセージが届くと、慎一はスマホを見つめて眉を寄せる。《無茶するなよ。お前は強いけど、強いからこそ心配なんだ》 本当は会って顔を見たい。 あの夜、改札で言
店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。 昼間のざわめきが嘘のように静まり、街灯が二人の影を細く伸ばしている。 店内であれほど飲んだワインの余韻が、まだほんのりと身体に残っていた。「寒くないか?」 慎一がそっと楓の肩に手を添えた。「うん、大丈夫。でも……少しだけ涼しいね」「……もう一軒、行く?」 慎一の声はどこか迷いを含んでいた。 帰りたくないのか、帰したくないのか。 楓にはそのどちらにも感じられた。「行きたい気もするけど……」 楓は夜空を見上げ、ゆるく笑う。 「今日はね、慎とたくさん話せたから……それだけで十分」 慎一は歩みを止め、楓の横顔を真っ直ぐに見た。 その目には、何か言いかけて飲み込んだような揺らぎがある。「楓……」「ん?」「……いや。何でもない」 その“何でもない”が、何でもないわけがないことくらい楓にもわかる。 だが慎一が言葉を選んでいることも、同時に伝わってきた。(慎……何を言おうとしたんだろう) 歩き出した慎一の背中に、楓は静かに並ぶ。 駅へ向かう途中の並木道は、冬支度の葉が揺れ、夜の風の音が二人の沈黙を柔らかく包む。 並んで歩くだけで心が穏やかになっていく――そんな不思議な相手だった。 ふと、慎一が言う。「……本当に頑張ってるよな、楓」「え?」「今日の話聞いてて思った。仕事も、恋愛も、自分をごまかさずに向き合ってきたんだろ?そういうの……簡単じゃないよな」「……慎」 優しい声だった。 慰めじゃなく、尊敬のこもった声。「俺は……楓のそういうとこ、ずっと好きだよ」 最後だけ少し声が低くなった。 “好き”という言葉の温度が、頬に残る。(……どういう意味?) 聞き返す勇気はなかった。 訊かなければ、今の関係は壊れずに済む――そんな気もしたから。 二人は駅までの短い距離を、ゆっくりと歩いた。 改札の前で、慎一がふと立ち止まる。「今日は……本当に来てくれてありがとう。そして……楓の隣に立てて、嬉しかった」「私も……ありがとう、慎」 楓が微笑むと、慎一は少し照れたように目を逸らした。 そしておもむろに口を開く。「楓……もし――」 そこまで言って、また言葉を止めた。 胸がどきりと跳ねる。「……いや。続きはまた今度でいいな。今言ったら、たぶん……
「……悔しかったの!!」 楓が言い終えたとき、テーブルの上には一瞬だけ静寂が生まれた。 レストランの柔らかい照明が、楓の赤くなった目元を淡く照らし、 その姿を正面から見つめながら、慎一は黙ってワインを一口飲んだ。 まるで楓の感情が落ち着くまで待っているようだった。 やがて慎一は静かに口を開く。「……悔しいって思えるのはさ、楓が本気で生きてきた証拠だよ」「本気……?」「そう。仕事も恋愛も、全部ちゃんと向き合ってたからこそ、胸に残るんだよ。 適当にやってたら、何も感じないまま終わってた」 慎一の声は低く、穏やかで、まるでどんな怒りも悲しみも吸い取ってしまうような響きだった。「でも……」 楓は視線を落とし、指先でグラスの脚をなぞる。「でも? 続けて」「悔しい気持ちって、自分が惨めに感じるじゃない……? 私、あのとき……“価値のない女”になったみたいで」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の眉がわずかに動いた。 だが怒りではなく、悲しむような、痛むような表情。「それは違う」 はっきりと、しかし優しい声。「価値がどうとか……そんなの他人が決めるもんじゃない。 もし亮に捨てられたって思ってるなら、それも違う」「……え?」「亮が楓を選ばなかったんじゃない。 “楓が亮に見合わなかった”んじゃない。 単に亮が……楓みたいな真面目な人間の隣に立つ器じゃなかっただけだよ」 楓は言葉を失ったまま、慎一の顔を見ることしかできなかった。「それに……年齢とか、赤いドレスとか、妊娠するとか…… そんなこと言ってマウント取ってくる女なんて、嫉妬してる証拠だよ」 慎一は少しワインを飲み、続けた。「楓は美人だし、頭はいいし、腕は良いし……何より、強い。 あんな子が敵うと思う?」「つよ……い?」 楓は思わず聞き返す。「そうだよ。さっきまで泣いてたのに、一瞬で着替えて歩き出すような女だぞ? そんな奴、世の中にそういない」 楓は少し笑った。「……それ、褒めてる?」「褒めてる。最高に」 慎一はさらりと言い、楓は照れくさくなってワインをもう一口飲んだ。 そのタイミングで、メインの料理が運ばれてきた。 立ちのぼる香りに、心の重さが少しずつ溶けていく。 ふたりはしばらく黙って食事を口に運んだが、 沈黙は不思
ホテルから少し離れた繁華街の灯りに入ると、さっきまで胸の奥を締めつけていた苦しい重さが、不思議と薄らいだ気がした。 慎一の隣を歩いていると、歩幅のリズムも、会話の調子も、自然と昔に戻っていく。「なんか……こうして歩いてると、大学の頃みたいね」 楓がくすっと笑うと、慎一も目尻を柔らかくした。「大学の頃は、こうして二人で歩くのすら緊張してただろ」「してた。慎一、すぐ黙るんだもん」「楓だって、“別に”とか“普通”とか、答えが短かった」「……言われてみれば」 ふたりして笑い合いながら歩くその時間は、つい二年前までの、亮に会う前の“慎一と楓”に戻ったようで―― 楓の胸にあった棘が、ひとつずつ抜けていくのを感じた。(……慎一が一緒でよかった) あのホテルで、もしひとりであの二人に会っていたら――。 そのあとひとりで食事をしていたら――。 帰り道、きっと泣きながらタクシーに乗っただろう。 考えるほど、慎一がそばにいることが、心強かった。 そんな温かさを胸に抱えたまま、二人は慎一のお気に入りのレストランに到着した。 看板を見た瞬間、楓は「あれ?」と声を上げた。「ここって……先週、真琴と来たとこ!」「え、真琴も使ってんのか?」 慎一はほんの少しむっとして、楓を見る。「オレが初めて連れてくると思ってたのに」「レストランに誘うのに、“初めて”も何も……」 楓は吹き出した。 だが慎一の悔しそうな横顔が妙に可笑しくて、つい続けた。「でもね、真琴も言ってた。“ここは席と席が離れてて、話聞かれないから落ち着く”って」「……そうなんだよな。そこが好きなんだ」 慎一は言いながら、椅子を引いて楓を座らせた。 その自然な仕草が、昔から変わらず紳士で、胸がほんの少し温かくなる。 メニューを開く前に、慎一がふっと真剣な目をした。「楓。好きなの頼めよ」「もちろん」 メニューを渡された楓は、少しだけ笑って返した。 注文を終え、先にワインが運ばれてくると、慎一がグラスを軽く掲げた。「改めて――就職おめでとう」 落ち着いた声。 決して大げさな言い方ではないのに、その一言が胸に響く。「……ありがとう、慎」 楓は軽くグラスを合わせ、一口飲んだ。 ふと、さっきのホテルでの出来事が胸をかすめた。「ごめんね、慎。ホテルのフレン
ホテルを出てからしばらく、二人は人通りの多い夜の街を並んで歩いていた。 慎一は楓の歩幅に合わせ、急かさず、沈黙も責めず、ただ隣にいる。それだけで、楓の胸のざわつきは少しずつ落ち着いていく気がした。 と、そのとき――楓が突然顔を上げた。「……慎、ちょっと待ってて!!」「え?」 返事を聞くより早く、楓は赤いハイヒールの音を響かせ、通りの向こうへと駆けだした。「楓!? 走る靴じゃないだろ……!」 慌てて追いかける慎一。 楓が勢いよく飛び込んだ先は、通り沿いの大きなジーンズショップだった。 看板のネオンが、彼女の真っ赤なドレスとは場違いなほどカジュアルに輝いている。 慎一も遅れて店に入り、店員が驚きの目で楓を見つめているのを横目に、店の奥へ進んでいった。 楓はというと、とにかく早い。 奥の棚へズンズン進み、サイズを確かめもせずジーンズを一枚、さらに黒色のVネックのセーターを掴んで、勢いのまま試着室へ消えていく。「お、おい……?」 制止する暇もなかった。 数分後。 シャッ、とカーテンが開き、そこから出てきた楓は――。 先ほどまでの赤い勝負ドレスとは別人だった。 淡い色のスキニーデニムに、身体のラインを柔らかく見せるセーター。 足元のハイヒールはそのままだが、全体的に肩の力が抜けた“大人のカジュアル”。 そのあまりのギャップに、慎一は吹き出した。「ぷっ……な、何だそれ……っ! おま、はは……!」 腹を抱えて笑う慎一。 楓はむくれたように眉をひそめ、ツカツカと店員のもとへ向かった。「これ買うので、値札切ってください」 その声は妙に落ち着いているのに、じわじわ悔しさが滲んでいる。 店員は戸惑いながらも頷き、楓の袖やジーンズのタグを丁寧に切っていった。 店内には、まだ慎一の笑い声が響いている。「……いいのよ、別に。もうドレスの気分じゃないし」 楓は店員に会釈し、バッグから財布を取り出した。「これで……」 カードを差し出そうとした、その瞬間。「これでお願いします」 慎一が横からひょいと手を伸ばし、店員へ自分のカードを差し出した。 店員は楓の手と慎一の手を見比べ、一瞬だけ笑みを浮かべてから、慎一のカードを預かりレジへと消えていった。「ちょっと……なんで慎が出すのよ!?」 楓は憤慨して慎一を睨む。
亜里沙が笑いながら去っていった後の空気は、まるで冬の夜をさらに冷やしたように重く、ぴんと張りつめていた。 煌びやかなホテルのエントランス。車寄せには黒塗りの高級車が次々と姿を見せ、淡いライトが石畳を照らしている。 華やかな場所のはずなのに、楓はその中心でぽつんと立ち尽くし、世界に取り残されたように感じていた。 ――赤いドレスなんて、今更だったかも……。 亜里沙に吐き捨てられたひと言が、まるで棘のように胸に刺さったまま抜けない。『もうおばさんなんだから、そんな派手なの痛々しいよ?』 そんなこと、言われなくてもわかっていた。それでも、鏡の前で何度も迷った末に選んだ“勝負色”。 外科医時代、手術が成功した夜――仲間たちが「楓先生は赤が似合う」と嬉しそうに言ってくれた声を思い出し、今日は久しぶりにその言葉にすがって袖を通したのに。 胸がぎゅっと締めつけられる。(あの子だって、私より四つしか若くないのに……) それでも、亮を奪った女に「おばさん」と笑われた一撃は、思っていた以上に痛かった。 せっかく亮への気持ちを断ち切れたはずだったのに。 よりによって、再出発のつもりで臨んだ就職祝いの日に、あの二人――全ての“始まり”となった二人――と再会してしまうなんて。「……あたし、最近ホントついてない……」 年齢を考えれば、そろそろ結婚も視野に入れていた。 子どもを望むなら、タイムリミットも近づいてくる。 亮のために仕事を変え、友人たちとも距離を置き、あの頃の自分を犠牲にしてまで尽くしてきたのに――結果がこれだ。「………バカみたい………」 声に出した瞬間、感情が堰を切ったようにあふれ出し、大粒の涙が頬を伝った。 エントランスの光の中で、涙はやけに鮮やかに光って見えた。 人目なんて気にする余裕はもうなかった。ただ、悔しさと虚しさが胸を張り裂けるほど満ちていた。 そのとき。「――待たせて、ごめん」 背中越しに静かで落ち着いた声が降ってきた。 振り向こうとしない楓の前に慎一がまわり込み、そっと覗き込むように顔を寄せた。 楓はなおも目を合わせず、涙だけが頬をつたう。 慎一は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、次の瞬間にはふわりと楓を抱き寄せていた。「……お嬢さん。俺で良かったら、いくらでも話を聞くよ」 その声は、責めず